2017年9月25日 (月)

カラヤンの1960年代 14

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ミラノ・スカラ座による
マスカーニの歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」
1965年9,10月にミラノ・スカラ座で収録されている。
たっぷりと鳴らして、雄大に音楽を作り上げていくが、
この辺は1960年代のカラヤンであり、実に感動的だ。
大袈裟になりそうなのだけど、研き抜かれた造形で
隅々にまで、カラヤンの美学が行き届いて、完璧だ。
カルロ・ベルゴンツィやフィオレンツァ・コッソットという
歌手たちも劇的な歌声だが、カラヤンの音楽がすべて
大きく包み込んで、壮大にまとめ上げている感がある。
この1965年の秋以降、カラヤンとミラノ・スカラ座の
録音は存在しないのではないか。以後、ヴェルディも
ベルリンやウィーンでの録音となる。それを考えると
この10年後のベルリンフィルとの録音があったなら
ぜひ聞いてみたかったと思うのだが、明日は続いて
もう一方のレオンカヴァッロの歌劇「道化師」である。

DG 457 764-2

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2017年9月24日 (日)

ユジャ・ワン 2

ユジャ・ワンとアバドの協演によるラフマニノフを聞いている。
パガニーニの主題による狂詩曲とピアノ協奏曲 第2番
クラウディオ・アバド指揮マーラー室内管弦楽団の演奏で
2010年4月にフェッラーラのテアトロ・コムナーレで収録。
ユジャ・ワンのピアノはこの上なく鮮やかで音色は美しく、
間違いなく、これまででも最高の名演といえる演奏だ。
爽快に快速な指の動きで勢いよく弾き進めていくのだが、
音楽を歌い上げるところではロマンティックな表現であり、
たっぷりと聞かせている印象もあって、とにかく絶妙である。
隅々にまでクリアに聞かせるアバドの指揮も聞きものだが、
そうした方向性によるものか、マーラー室内管弦楽団という
比較的小編成の規模によるものか、オーケストラの響きは
淡白な仕上がりに聞こえるところもあって、これはアバドの
晩年のスタイルで、ラフマニノフで聞けるというのが楽しみ。

DG 00289 477 9308

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2017年9月23日 (土)

9月23日の感想

熱心にうがいをして、鼻にも薬をして、
喉の痛みも鼻水も治まってきたのだが、
どうも調子が悪くて、それというのは、
疲れて寝るとずっと寝続けているので、
元気だったら起きてしまうはずであり、
やはり具合が悪い。天気も悪い週末で
大人しくしていよう。今日も早寝をして。

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2017年9月22日 (金)

9月22日の感想

風邪を引いたようだ。
移ってきた覚えはないのだけど。
心当たりがあるのは、暑い暑いと
風呂上がりに夜の涼しい風に長時間、
当たっていたのがよくなかったと思う。
鼻が出て、口の中が苦く、喉が痛い。
熱はなく、食欲もあるが、早寝する。

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2017年9月21日 (木)

ラファウ・ブレハッチ 2

ラファウ・ブレハッチでショパンのポロネーズを聞いている。
作品26、作品40、作品44、英雄ポロネーズ 作品53、
幻想ポロネーズ 作品61で、主要な作品をすべて収録。
2013年1月にハンブルクのフリードリヒ・エーベルト・ハレ。
強い意志と主張の感じられる演奏で真っ直ぐに突き進み、
集中力ある展開は、強烈な存在感を示しているのだが、
その若さと勢いが、どうもうるさく感じられることもあって、
強弱も緩急についてもさらなる自由が欲しくなってしまう。
余裕のない感じで、響きが堅いのと余韻が感じられない。
しなやかさと優しい弱音が、もう少しあったらありがたい。
しかしここまでハッキリとした主張が出てくるとは、それは
ちょっと意外なことであったかもしれない。それというのも
やはりブレハッチはもっともっと聞いてみたくなってしまう。
ポロネーズに関しては、あまり私の好みではなさそうだ。

DG 00289 479 0928

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2017年9月20日 (水)

圓朝速記~真景累ヶ淵(四一)

続いて、三蔵がお累を見舞っている場面である。

三蔵「…ええ、私の云う事を聴かれませんか、
是程に訳を云ってもお前は聴かれませんかえ、
悪魔が魅入ったのだ、お前そんな心ではなかったが
情ない了簡だ、私はもう二度と再び来ません、
思えばお前は馬鹿になって了ったのだ、呆れます」

腹が立ったわけではなく、妹かわいさゆえに
きついことをいっていると圓朝師匠は説明しているが、
お累は癪(しゃく)を起して、倒れてしまい、
そこへ蚊帳を取りに行った與助が戻ってきて…

三蔵「…宜いか、今水を飲ませるから、ウグウグウグウグ」
與助「何だか云う事が分んねえ」
三蔵「いけねえ、己が飲んでしまった」

自分で飲んでしまうのは、落語によくある描写だが、
「七段目」の気絶した定吉に水を飲ませるところか。

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2017年9月19日 (火)

第141回 柳家小満んの会

夕方から横浜の小満んの会で関内ホールへ。
その関内ホールが11月から工事で休館となり、
会場が吉野町市民プラザへと変更になる。
長年、通い馴れた会の様子が変わるのは、
寂しい気もするのだが、それは仕方ないか。

春風亭きいち:芋俵
柳家小満ん:渡しの犬
柳家小満ん:酢豆腐
柳家小満ん:九州吹き戻し

「九州吹き戻し」が出ていたので、この時期、台風の襲来が
恐いなと思っていたのだが、案の定、これに合わせたように
台風18号が来て、そのまさに九州で大きな被害が出たけれど、
台風一過の晴天で、こうして無事に聞けたことは幸いである。
前の棚卸しのときもそうだったが、師匠の「九州吹き戻し」は、
本当に台風を呼んでしまうので、すごい。直前に過ぎてくれて、
そのお陰で、前回も今回も聞けているのだ。それはいいとして、
一席目は「渡しの犬」で、四年前の日本橋の会で聞いているが、
旧制高校というから戦前か?英語の教科書に載っていたという
ナサニエル・ホーソンの「デヴィッド・スウォン」の翻案ものであり、
辞書を引きつつ原文も読まれたそうで、ニューハンプシャー州の
デヴィッド・スウォンが、ボストンで鞄を売っているおじさんの元へ
旅しているのであり、泉のほとりで、次々起こる物語というのが、
この話なのだが、ちょうどその頃…時は江戸であり、矢切の渡し、
舟を待つ間、木陰の昼寝で、そこで起こる出来事が落語である。
寝ている間に自分の知らないところで、よいことも…悪いことも…
いろんな事件が目の前で起きては何もなかったように過ぎていく。
人生とはそういうもの、それをプレイバック、時間の巻き戻しで
紹介していくこの手法は、落語では珍しい。ちょっとしたきっかけ、
それはほんの些細なことだけど、人生を大きく変えてしまうような
そんなことも起こりうるし、しかしそれも僅かにかすめ、指の間を
すり抜けては、我々は平穏無事に生きている。というのを夢の中、
三幕の物語で語られるのだが、ふと目が覚めると何も変わらず、
渡しの舟が出るのであり、そうなるはずの人生が回りはじめる。
のんびりとした時間が流れ、これまた実に独特の味わいである。
二席目はお馴染みの「酢豆腐」だが、小満ん師匠も夏というと
毎年のようにどこかで演じているのではないかと思うのだが、
滑らかに快調なお喋りで楽しかった。「ちりとてちん」と違って、
こちらは腐って変色のしている豆腐をそのまま出すのであり、
見た目も「酢豆腐」、酸っぱい臭いで「豆腐の腐った味」って、
若旦那もそれに気付いているはずなのだが、乙を気取って、
変なプライドがあって、決して断らない。口を付けているのは、
ほんの一口、僅かなのだけど、臭いと目に染みるのがきつく、
扇子を大きく広げて、バタバタと仰ぎながら、口元を隠して、
無理をしている姿をまだ隠し続けているのは何とも面白い。
こういう場面を過剰に演出しないのが、師匠の演り方だが、
それは同時に気障な若旦那の意地であり、面白がっている
江戸っ子たちの遊び心、茶番劇のような…夏の風情である。
そして「九州吹き戻し」である。棚卸しで聞いて以来、二度目。
前に聞いたときははじめてだったので、探りながらでなかなか
すべてを把握できた印象はなかったのだが、それからすっかり
筋も忘れてしまっていたけれど、今回は実に面白かったのだ。
肥後熊本を出て、九州を北上、しかし玄界灘で台風に見舞われ、
そのまま流され、薩摩に打ち上げられる…江戸とは逆の方角に
吹き戻されてしまった、という展開だが、玄界灘へということは、
九州から江戸へ向かう船は、太平洋でなく、瀬戸内海を進む
ということだろうか。北前船などと同様に海岸線から離れず、
港で取引をしながら進んでいくのだろうけど、瀬戸内海を経由、
大坂へという海路だったのかも。もうひとつ、前回も同じことを
書いたと記憶しているのだが、熊本から江戸が二百八十里、
薩摩から江戸が四百里、差し引き「百二十里吹き戻される」
というサゲだけど、熊本から鹿児島が距離で120里≒480㎞、
ここが謎なのである。参考にGoogleで熊本駅から鹿児島駅、
歩いての移動をコース検索すると170㎞を37時間と出る。
百二十里だと遠すぎるのだが、別の意味があるのだろうか。
ちなみに熊本城から江戸城までを検索してみると1157㎞である。
計算して里に直すとこれは二百八十九里となった。概ね正しい?
鹿児島駅から江戸城で検索してみると1330㎞と出て、里に換算、
およそ三百三十二里である。しかし薩摩藩島津家の参勤交代は、
1700㎞で四百四十里とあり、「薩摩から江戸が四百里」というのも
どうも昔からそういわれていたようである。おそらく昔の速記にも、
四百里とあるのだろうけれど、この辺りがどうもスッキリしない。
ということで未解決のまま、次回は11月20日(月)の第142回、
演目は「奈良名所」「なめる」「お直し」の三席、会場は吉野町。

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2017年9月18日 (月)

ミヒャエル・ギーレン 23

ミヒャエル・ギーレン・エディション(第4集)から
南西ドイツ放送交響楽団でスークの交響詩「夏物語」、
1993年2月4日にハンス・ロスバウト・スタジオで収録。
この交響詩「夏物語」は、作品の存在は知っていたが、
聞くのははじめてである。ノイマンでもペシェクでもなく、
まさかギーレンの指揮で聞けるとは思っていなかった。
5楽章からなる標題音楽でスークのお伽話的な作風、
20世紀の世界観を出しつつも後期ロマン派の響きで、
その壮大な音楽にはずっしりとした重みが感じられる。
ドヴォルザークの作曲を離れ、後のマルティヌーへと
向かって行くような作品だ。なかなか最初は難しいが、
スークの音楽は、聞けば聞くほどにはまってしまう。

SWR>>music CD-No.SWR19028CD

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2017年9月17日 (日)

クラウディオ・アバド 38

アバドの指揮によるチャイコフスキーの交響曲を聞いている。
ウィーンフィルの演奏で、交響曲 第6番 ロ短調「悲愴」
1973年10月にウィーン楽友協会大ホールで収録されている。
ロンドン交響楽団との交響曲 第5番(1970年録音)を聞くと
そちらもよくて、ロンドンで統一して録音してほしかったと
思ってしまうのだが、やはりウィーンフィルの演奏は圧巻で
あまりにも感動的であり、これを聞いたら頭の中はすっかり
ウィーンで支配されてしまう。華やかさと色彩豊かな音色で
この悲痛な響きを描き出すのであり、独特なしなやかさは、
後のシカゴ交響楽団の演奏よりもさらに魅力的であると
思えてきてしまう。この時代のアバドも聞きたくなってきた。

CDR921

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2017年9月16日 (土)

ウォルフガング・サヴァリッシュ 6

ウォルフガング・サヴァリッシュ指揮ロンドンフィルで
ブラームスの交響曲全集を収録順に聞いている。
交響曲 第2番 ニ長調 作品73(1989年6月)
ハイドンの主題による変奏曲 作品56a(1990年4月)
ロンドンのアビー・ロード・スタジオで収録されている。
この当時、サヴァリッシュの演奏を聞いていたときには、
穏やかさもあって、ゆったりと大きさを感じていたのだが、
改めて聞いてみて、やはり引き締まった音楽が特徴だし、
しかしそこに深みが存在しているのが、通好みである。
渋い響きで、スターの華麗さはないけれど、これこそが
ブラームスの演奏における理想であると私には思われる。
厳しさともとれるが、折り目正しい端正な音楽は格調高く、
サヴァリッシュは聞けば聞くほどに偉大な存在であった。
秋になって、涼しくなり、ブラームスが聞きたくなってくる。

WARNER 0999 9 93565 2

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