2023年7月24日 (月)

カラヤンの1960年代 26

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルによる
ワーグナーの「ニーベルングの指環」から
楽劇「神々の黄昏」~第3幕を聞いている。
1969年10,12月、1970年1月に
ベルリンのイエス・キリスト教会で収録。
ジークフリートには勢いがあり、ラインの乙女たちは、
黄金の不在を嘆く苦しみの心情に支配されながらも
響きはこの上なく美しく、カラヤンはメリハリを効かせ、
つまり呪いのかけられた指環だが、ジークフリートは
意気揚々と返還を拒絶するのである。力がみなぎり、
輝きの歌声を聞かせるジークフリートにふれては、
この先の悲劇的な展開との対比も鮮やかである。
ヘルゲ・ブリリオートのジークリートは素晴らしい。
記憶が蘇り、かつての武功を口にしてしまうのだが、
カラヤンが描き出す透明感のある情景において、
ブリュンヒルデとの記憶は後悔の念を引き出して、
ハーゲンに槍を突き立てられ、瀕死の状況にあり、
ジークフリートはそれにふさわしく、弱い声を出す。
音楽もまた合わせて、思い切って、抑制傾向で、
ジークフリートの死の場面で、こうした仕上がりは、
カラヤンのリアリティの追及で実に特長的である。
ジークフリートの葬送となるが、荘厳な響きだが、
偉大さを称える音色から英雄を失ったことでの
深い悲しみへと色合いは変化していくのであり、
葬送行進曲のわずかな間にもこれだけのものが、
詰め込まれ、こんなにも深い響きはないのである。
後半では、「ブリュンヒルデの自己犠牲」となるが、
ヘルガ・デルネシュが素晴らしく、カラヤンによる
綿密な指示にもよると思うが、精妙な音楽に乗り、
まさにカラヤンの魔法の音色に極上に歌わされ、
その感動に聞く人も酔いしれる。この第3幕は、
ワーグナーの演奏史でも究極の仕上がりであり、
楽劇「神々の黄昏」の全体が、最上の名演だ。
指環の物語の終盤で、最高の幸福に包まれた。

DG 457 780-2

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2023年7月23日 (日)

カラヤンの1960年代 25

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルによる
ワーグナーの「ニーベルングの指環」から
楽劇「神々の黄昏」~第2幕を聞いている。
1969年10,12月、1970年1月に
ベルリンのイエス・キリスト教会で収録。
寝ているハーゲンの夢枕にアルベリヒの亡霊が立ち、
復讐の完成を促すが、ここでも恐ろしく細やかな表現で、
力強い音楽にカラヤンは繊細な表情まで盛り込んで、
やはり「神々の黄昏」はこだわりの驚異の仕上がりだ。
夜が明けると音楽は熱気を帯びてきて、勇ましくなり、
ここで合唱団が加わり、いかにも壮大になるけれど、
とにかく感動的である。参加者も多いし、歌手も多く、
「ジークフリート」の完成度に比べ、その辺の印象に
ばらつきがあるとも古い批評には書かれていたが、
既成概念との違いは、カラヤンの意図と指示であり、
それこそがここでの最大の特長であり、魅力であり、
カラヤンを感じられる部分である。そこを聞くべきで、
技は冴え、ますます表現は明確になり、強靭である。
1966年の「ワルキューレ」にはじまって、4年間で
カラヤンはこの録音で、何かをつかんだに違いない。
「神々の黄昏」の精密な完成度は、ただただ驚きだ。
後半になり、静まる力強さで、グンターとハーゲン、
ブリュンヒルデの三重唱における緊迫感も最高だ。
明瞭に聞かせるこの透明感ある響きには感激する。

DG 457 780-2

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2023年7月22日 (土)

カラヤンの1960年代 24

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルによる
ワーグナーの「ニーベルングの指環」から
楽劇「神々の黄昏」~序幕と第1幕を聞いている。
1969年10,12月、1970年1月に
ベルリンのイエス・キリスト教会で収録。
冒頭から響きが美しく、何とも研き抜かれた印象であり、
カラヤンの「指環」も4年目でこれが最後の作品となって、
その完成度も究極の域に達してきていると思われる。
すごくいいのだが、短い期間に全作を集中して聞いて、
同じ耳で感じ、条件は変わらないのだけど、どうしても
生まれる想いは、幕ごとにも違ってきたりするのであり、
その辺の理由はよくわからないが、ここでのカラヤンは
冴えわたって、頭ではなく、心が激しくそういっている。
有名な「ジークフリートのラインへの旅」を聞いていても
その輝きときめ細かい表現で圧倒的な印象なのである。
間奏が終わって、第1幕のギービヒ家の場面になると
いよいよハーゲンが登場、カール・リッダーブッシュで
驚きなのはグンターがトマス・スチュアートなのである。
ヴォータンがグンターになってしまったという、そこは
突っ込みどころだが、トマス・スチュアートは魅力的で
「神々の黄昏」でも聞き続けられるのは喜びである。
この「指環」を支えた最も重要な存在といえるであろう。
第1幕は人間ドラマだが、カラヤンは精妙な表現で
しなやかに進める。重厚に巨大に鳴らすことはない。
逆に響きは軽く、透明感を重視して、それはむしろ、
これこそがカラヤンの音なのであって、好印象だが、
聞き進むほどに引き込まれてくる。長い第1幕だが、
不思議なぐらいに集中力は持続し、繊細な情景だ。
強い推進力や何か聞く人を圧倒するような迫力は
ここには存在しないけれど、カラヤンが導き出した、
「指環」の到達点が明確に示されており、感動する。

DG 457 780-2

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2023年7月18日 (火)

カラヤンの1960年代 23

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルによる
ワーグナーの「ニーベルングの指環」から
楽劇「ジークフリート」~第3幕を聞いている。
1968年12月、1969年2月に
ベルリンのイエス・キリスト教会で収録。
第3幕の後半の盛り上がりに備えてか、第1場では、
音楽はそれほど出てこないのだが、ヴォータンがいて、
エルダは右側の高い位置に離れている印象であり、
録音におけるその位置関係の仕上がりがすごくいい。
エルダはオラリア・ドミンゲスであり、「ラインの黄金」の
同役から出演している。神聖な空気感が独特であり、
ヴォータンに神々の未来を告げる役割でぴったりだ。
カラヤンの綿密な指示が行き届いていると感激する。
第2場でジークフリートが登場し、色合いも華やかに
少しずつ熱量が上がってくるが、カラヤンはここでも
まだ抑え気味であろうか。というのもヴォータンは、
ジークフリートの勢いに圧倒されて、力を失いつつ、
ここで主役の座を明け渡すのであり、さすらい人を
押し退け、ジークフリートが高らかに新たな一歩を
踏み出すところから音楽も一気に高揚してくる。
カラヤンの狙いはそこにあったかと納得である。
しかしジークリートが困難を乗り越えたその先で
はじめて女性という存在を知る衝撃やその戸惑い、
そこに生まれる恐怖の感覚というものを認識して、
どうもカラヤンは、そこも淡々と進めている印象で
ジークフリートの心情が音楽に反映されていない。
ブリュンヒルデが目覚めたところから冴えてくる。
一気に巨大になって、聞きたいのはこれである。
第3場に関しては、ずっと盛り上がりっぱなしで
ここで遠慮しないでいいのだけど、カラヤンは、
どうもしっかりと聞かせるところと流すところと
メリハリを付けたがる。ここで聞かせるというのを
心得ているわけで、それらを繋いでいる場所では
抑えておかないと聞き手を圧倒できないのだが、
緻密なコントロールの一方で高揚感が足りない。
やはりカラヤンは精妙に描き尽くしたいのである。
第3幕において、特に第3場は、カラヤンならば
巨大に盛り上げるかと思うのだが、やはりここで
洗練された表情を追及するということが、最大の
テーマであり、特長であるらしい。完成度の高さは
間違いないのだが、何か天邪鬼的なものを感じて、
それが新解釈というわけでもないのだが、しかし
この1968年には、新鮮であったのかもしれない。

DG 457 780-2

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2023年7月17日 (月)

カラヤンの1960年代 22

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルによる
ワーグナーの「ニーベルングの指環」から
楽劇「ジークフリート」~第2幕を聞いている。
1968年12月、1969年2月に
ベルリンのイエス・キリスト教会で収録。
精妙な音楽ほど、カラヤンの表現は冴えわたるのだが、
第2幕は森の闇に包まれる前奏曲から微妙なところを
抉るように引き出し、力強い響きで気合いが入ってくる。
ヴォータンとアルベリヒが対峙して、左と右でやり合い、
正面の後方からファフナーの不気味な声が響き渡る。
カラヤンの緻密な音色で重厚な歌声が緊張感を生み、
これは素晴らしい。美しいものを求めるカラヤンだが、
それゆえにここでの醜悪な想いが交錯する場面で
その暗黒面が際立ってくる。不気味な世界の先には、
第2場になり、恐れ知らずのジークフリートが登場し、
森のささやきの朝の情景へと色合いも変化していって、
明暗の表現やその輝きは圧倒的であって、この辺で
カラヤンはいよいよ奇跡を起こしてくる感じである。
「ジークフリート」のカラヤンがすごいという記憶は、
ここであったかと。ジークフリートの角笛に呼応して、
大蛇が姿を現す感じも目に浮かぶし、その巨大さは
恐ろしいまでの緊迫感がある。カラヤンを象徴する、
研ぎ澄まされた美意識だけではない、創造性であり、
夢は膨らむ。一方で大蛇が無鉄砲なジーフリートに
警告と知恵を授けるところでは、醜いファフナーが、
最後に聖人のような最期を迎え、カラヤンの美学を
そうしたところに感じる。そして毒殺を試みるミーメを
返り討ちにするのだが、そちらは喜劇的要素だけど、
カラヤンの音の描き出し方はこの上なく冴えていて、
存在するあらゆる要素は完璧な形で再現されている。
ゲルハルト・シュトルツェによるミーメが素晴らしくて、
カラヤンはローゲやミーメの扱いが上手いのである。
独りになってしまったジークフリートは小鳥の導きで、
旅に出て、いよいよ「指環」の物語も後半へと進む。

DG 457 780-2

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2023年7月16日 (日)

カラヤンの1960年代 21

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルによる
ワーグナーの「ニーベルングの指環」から
楽劇「ジークフリート」~第1幕を聞いている。
1968年12月、1969年2月に
ベルリンのイエス・キリスト教会で収録。
1960年代の後半に毎年、一作ずつ制作されていった、
カラヤンの「ニーベルングの指環」で「ジークフリート」が
その緻密な完成度で圧倒的に優れていると、そういう
認識でこれまで来たのだが、ここで改めて聞いてみて、
どうもカラヤンの魔法にかけられる感覚がない。なぜ。
1972年に「トリスタンとイゾルデ」を完成させ、その後に
1970年代半ばの絶頂期に「指環」を再録音していたら、
さらに違った世界が広がったのかもしれない。といって、
そんなに何度もできるわけではないのが「指環」であり、
機会は一度きりなのである。その一方で、カラヤンは
1970年代に「指環」の映像での収録を試みていたが、
「ラインの黄金」しか実現しなかった。理由は不明だが、
カラヤンの「指環」との関りはそこで終わってしまったか。
ミーメはゲルハルト・シュトルツェで、「ラインの黄金」で
ローゲを歌っていたが、ここではミーメで出演している。
そしてさすらい人のヴォータンがトマス・スチュアートで
第2場で登場すると一気に空気が変わり、感動する。
カラヤンは勢いと迫力で音楽を推進させることをやめ、
楽劇「ジークフリート」の緻密さを丁寧に表現していき、
隅々にまで見通しのいい音楽は、1960年代の当時は、
非常に画期的に思われたのかもしれないが、その後は
その手法が徹底されていくのであり、現代の感覚では、
当然であり、基本であり、驚きもなくなってしまったか。
第2幕、第3幕へとカラヤンの音作りにも耳が慣れ、
そこでの想いはどう変わるか、しっかりと追っていく。

DG 457 780-2

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2023年7月11日 (火)

カラヤンの1960年代 20

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルによる
ワーグナーの「ニーベルングの指環」から
楽劇「ワルキューレ」~第3幕を聞いている。
1966年8,9,12月にベルリンのイエス・キリスト教会で収録。
有名な前奏曲で「ワルキューレの騎行」からはじまるが、
ベルリン・フィルの演奏も素晴らしいが、少し思ったのは、
この勇壮な感じ、駆り立てられて突き進む感覚というのが、
カラヤンの美的志向とどうも一致しないのではないかと。
ご本人はそんなことは少しも思っていなくて、こちら側の
勝手な思い込みではあるのかもしれない。聞いていて、
「ワルキューレ」の第1幕から通して、カラヤンの魅力が
活きていない、表面的には優れているが、深いところで
どこか響いてこない、それは、カラヤンの目指す方向性、
表現の高みと作品の性格が交わらないからではないかと
感じてしまったのである。恐れずに作品を引き寄せて、
カラヤンの世界に彩られた「ワルキューレ」にした方が、
我々にとってもわかりやすかったのではないかと思う。
しかし1960年代のカラヤンは、そこまではしなかった。
1970年代になるとカラヤンは、その先にあるものを求め、
踏み込み、突き進み、その結果として得られた情景が、
「トリスタンとイゾルデ」の極みであったのはないかと。
しかし先の方へと進んでいき、第3場ではヴォータンと
ブリュンヒルデによる深く濃密なやり取りが交わされて、
ヴォータンのブリュンヒルデとの告別の場面は感動的だ。
トマス・スチュアートが聞かせる。声を張り上げることなく、
慈しみ、そのすべてに切々たる想いが込められている。
この告別の音楽は素晴らしい。ローゲに炎を掛けさせ、
ヴォータンは力強く、その指示を歌い上げているのだが、
悲しみの感情が反映され、勢いある陽の声にはしない。
一方で炎の輝きは圧倒的で、娘を想う父の情が際立ち、
こうした対比する感情の色合いを音楽に乗せていって、
精妙に表現するのは、カラヤンはさすがに名人である。
第3幕の後半で別れの場面は、必ず感動するところで、
名演は多いが、中でもカラヤンは、これは印象に残る。
楽劇「ワルキューレ」では、カラヤンと歌手たちとそして
ベルリン・フィルとの完全な一体感は得られなかったが、
それは続く「ジークフリート」で成し遂げられるのであり、
作品の室内楽的方向性もあって、見事に極められると
そんな聞き方をした記憶があるのだが、確かめたい。

DG 457 780-2

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2023年7月10日 (月)

カラヤンの1960年代 19

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルによる
ワーグナーの「ニーベルングの指環」から
楽劇「ワルキューレ」~第2幕を聞いている。
1966年8,9,12月にベルリンのイエス・キリスト教会で収録。
この「ワルキューレ」がカラヤンの「指環」の第1作で
最初の一手は、やはりいろいろなことを試しながらで、
決して手探り状態でやっているということもないと思うが、
カラヤンだと普通に思えてしまう。作品が素晴らしいので、
普通でいいのである。ただそのままにゴリゴリ鳴らした、
ブーレーズの演奏は最高の感動であり、職人のように
丁寧に音を拾って、鳴らし聞かせる名演というのもある。
それに対して、カラヤンは隅々にまで、独自の細やかな、
精妙な音色を聞かせることを想像して聞きはじめるので、
普通に音楽が流れているだけでそれは肩透かしであり、
意外な展開はどこかモヤモヤだ。しかしここでの歌手は、
第1幕に続いて、カラヤンの最大の引き立て効果により、
物語の人間ドラマ(神々だが)は絶品であるともいえる。
ヴォータンはトマス・スチュアートであり、神々の物語を
ブリュンヒルデに語り聞かせるモノローグには痺れるが、
ヴォータンのイメージにもぴったりで、今日にも通ずる。
こんなにも素晴らしいが、翌年の「ラインの黄金」では、
ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウに変わってしまい、
しかし1968年の「ジークフリート」でのさすらい人では、
トマス・スチュアートが登場するので、カラヤンによる
リアリティ追及による適材適所の起用なのであろう。
映像版の「ラインの黄金」では、トマス・スチュアートが
歌っており、カラヤンにとってのヴォータンというのは、
トマス・スチュアートなのであろうことはそこでわかる。
フィッシャー・ディースカウのヴォータンは興味深いが、
やはりトマス・スチュアートで統一してほしかったと、
その思いの方が強い。それに対し、ブリュンヒルデは、
レジーヌ・クレスパンが歌っており、ワルキューレの
勇ましいイメージはあまりなく、ジークリンデと同じで
女声の繊細な表情や優しさに満ちており、そこにも
カラヤンの歌に対する明確な完成イメージがあって、
こだわりの追求であると思われる。その辺が魅力だ。
重量級の力で押すだけでないところがカラヤンで、
作品に存在している繊細な要素や可憐な美しさを
ここで示したことが最大の成果であるかもしれない。

DG 457 780-2

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2023年7月 9日 (日)

カラヤンの1960年代 18

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルによる
ワーグナーの「ニーベルングの指環」から
楽劇「ワルキューレ」~第1幕を聞いている。
1966年8,9,12月にベルリンのイエス・キリスト教会で収録。
カラヤンの「ニーベルングの指環」における第1作が
この「ワルキューレ」であった。存在感のある作品で
第1幕は「指環」の前半で最も盛り上がる場面であり、
音楽そのものの力強さで、カラヤンならではの表現が
どうもあまり生きてこない。カラヤンが作品に負ける、
というのは、なかなか珍しいことであり、少し驚きだ。
カラヤンが自身の独特の音楽を展開させようとすると
空回りするのである。その一方で、この第1幕では、
ジークムント、ジークリンデ、フンディングと歌手は、
3人だけであり、その人選も歌の仕上がりについても
カラヤンの意図が強く表現に反映されていると思うが、
ジョン・ヴィッカーズとグンドゥラ・ヤノヴィッツの場面、
そこに登場するマルッティ・タルヴェラは素晴らしい。
実に清々しい印象であり、新鮮な感覚で聞かせる。
ジョン・ヴィッカーズはいかにもジークムントであり、
グンドゥラ・ヤノヴィッツの歌が清らかで感動した。
フンディングが従来の粗暴で重々しい感じがなく、
カラヤンは作品全体の中での調和を強く意識して、
構成する要素はすべてを美化し、フンディングも
どこかスマートなインテリだ。そこは面白いのだが、
舞台のないレコードの完成度として、最高である。
その点では、ジークムントも元気に絶好調であり、
敵に追われている状況での切迫感はまるでない。
しかしレコードとして、音楽として鑑賞しているので、
これは究極の完成形なのであり、やはり感動する。
カラヤンが出てこないが、歌手を前に押し出して、
それは本来のあり方で、これが正解なのであろう。
カラヤンの存在というのを求め過ぎだ。それこそは
全体のバランスというものがあり、盛り上げすぎず、
第1幕が際立つことを避けているのかもしれない。
カラヤンの美意識が、強く感じられるところである。

DG 457 780-2

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2023年7月 3日 (月)

カラヤンの1960年代 17

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルによる
ワーグナーの「ニーベルングの指環」から
楽劇「ラインの黄金」を聞いている。
1967年12月にベルリンのイエス・キリスト教会で収録。
カラヤンのこだわりの表現で冒頭から引き込まれる。
思い切って、柔らかい響きを引き出し、特長ある音色が
カラヤンならではの細やかな表情を作り上げているが、
木管の音色なども丸みを帯びて明るく、魅力的である。
ラインの波の動機なども滑らかに優しい感触であり、
明瞭に鳴らせばいいというものでもなく、魔法である。
場所はイエス・キリスト教会なのだが、天井の高さで
空間を最大限に活かしているのか、第1場において、
アルベリヒとラインの乙女たちのやり取りを聞いても
ラインの河底の情景というのが、目に浮かぶようだ。
水中で喋っていて、こう聞こえるはずはないのだが、
リアルな感覚をあらゆる手法で追及するカラヤンで、
そこは面白く、そう思えてしまうところが演出である。
第2場になるとヴォータンが登場し、歌っているのが、
フィッシャー・ディースカウなのである。意外性であり、
最大の興味だけど、一方の巨人族を大袈裟に描き、
少しずつカラヤンの表現の広がりは拡大されてくる。
ローゲを歌うゲルハルト・シュトルツェも素晴らしい。
映像(1973)では、ペーター・シュライアーであったが、
カラヤンはローゲを大切にし、引き立てて聞かせる。
特徴付けるという点では、フライアの表現も美しい。
第3場のニーベルハイムでは、ますます素晴らしく、
地底に広がる巨大空間という、勝手なイメージだが、
ここでもカラヤンは自在に音響を扱い、実に上手い。
地底にうごめく醜いニーベルング族をアルベリヒが
力で支配して、悪意に満ちた暗黒の世界である。
その色合いを豊かに描き、暗黒面の表現も絶妙だ。
第4場になり、地上に戻って、明るく晴れわたるが、
ここからは神々と巨人族、アルベリヒの心理戦で
それは面白く、丁寧な特徴付けと入念な表現だが、
カラヤンは全開で濃密にすべてを描き切っていく。
この充実感はすごい。物語を澱みなく一気に進め、
その集中力ですべてが詰め込まれて、調和を保ち、
この均整の取れた造形感覚というのは究極的だ。
やはり「指環」は、カラヤンの芸術の最大にして、
最も偉大な完成品といっていいのかもしれない。
まだ「ラインの黄金」ではじまりであり、気が早く、
これから「ニーベルングの指環」を聞き進めていく。

DG 457 780-2

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