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2008年12月11日 (木)

落語につぶやき 5

落語を知ると「古典」と「新作」がある
ということを最初に知るのだが、
じゃあ、そういうふうに分けている基準って何?
どこまでが「古典」でどこからが「新作」なの?という…
それは実に難しい問題。正直わからない。
わからない理由を考えてみたいと思う。
これはあくまでも素人の感想ですので、
「自分と考え方が違う」と思っても文句はいわないでください。

理由1 時代では区切れない
「江戸時代の話が古典じゃないの?」という人がいるみたいだけど、
それは成り立たないかな…と私は思う。
イメージはよくわかるのだけど。
落語というと八つぁん、熊さん、御隠居さん登場の長屋噺、
吉原が舞台の廓噺、お店(たな)の噺、侍が登場する噺…。
それらをすぐに思い浮かべるので。

でも例えば、交通手段をテーマに考えれば、
駕籠が出てくる「蜘蛛駕籠」、幕末の噺で「蔵前駕籠」、
馬で旅をする「三人旅」、この辺はいかにも江戸時代。
しかし「反対俥」は人力車でもうちょっと後の時代。
明治・大正の頃に盛んに利用されたとある。

昔は庶民の間では読み書きのできない人がたくさんいた。
字が読めなくって、「何屋だ?」というところからはじまる「提灯屋」。
あと同じく読めなくって、手紙を代わりに読んでもらう「手紙無筆」。
この辺はいかにも江戸時代かな?という印象。
しかし一方で「代書屋」。字が書けないので
代わりに代書屋さんに履歴書を書いてもらうのだけど、
ここでの爆笑やり取りには、昭和のネタがたくさん盛り込まれている。

ということで「江戸時代だから古典」というのは無理…
(つづく)

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コメント

禅の言葉に「両忘」と言う言葉があります。

以下「心に静寂が得られる方法」より

生死を忘れる。貧富を忘れる。苦楽を忘れる。二元的な考え方をやめることです。
生きている時に「死んだらどうしよう」とくよくよ考えていないで、生きることに徹すると、死を忘れることが出来ます。さらに、死ぬことも生きていることも両方とも忘れると、心に静寂が得られます。
「あの人は私を愛しているのか、愛していないのか。」そういう風に白黒どちらかと考えれば心はざわめきます。なぜそんなことを考えなければいけませんか?白黒はっきりさせなければ気がすみませんか?もし、愛していないという結論が出ても満足ですか?あなたが愛しているなら愛することに徹すればいい。
愛しているか、愛していないかの両方を忘れて、ただ見つめ合ったらいかが。
白か黒かと考え始めてしまうと、美しい灰色も忘れてしまいます。

この最後の言葉は、非常にためになる言葉です。落語は楽しむ物、考える物ではないというのが自分の考えです。みんな受け入れちゃいます..その上で好き嫌い(これはどうしようもない)、心地良さで判別して聞きます。時が経つと嫌いだった物が好きになったりするので、いまは、なんでもかんでも音源映像で残しています。

まとまりませんが...

投稿: 広馬場 | 2008年12月12日 (金) 05:38

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