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2016年1月27日 (水)

圓朝速記~真景累ヶ淵(二二)

新吉とお久は出発。いよいよ舞台は下総羽生村へ。
知らない地名ばかりだが、道中付けに注目だ!

墓場から駈落をして、其の晩は遅いから松戸へ泊り、
翌日宿屋を立って、あれから古賀崎の堤(どて)へかかり、
流山から花輪村(はなわむら)鰭ヶ崎(ひれがさき)へ出て、
鰭ヶ崎の渡(わたし)を越えて水街道(みずかいどう)へかかり、
少し遅くはなりましたが、もう直(じき)に羽生村だと云う事だから、
行くことにしよう、併(しか)し彼方(あちら)で直(すぐ)に御飯を
たべるも極りが悪いから、此方(ここ)で夜食をして行こう
と云うので、麹屋(こうじや)と云う家で夜食をして道を聞くと、
これこれで渡しを渡れば羽生村だ、土手に付いて行くと近い…
(中略)是からダラダラと河原へ下りまして、渡しを渡って
横曾根村(よこぞねむら)へ着き、土手伝いに廻って行くと
羽生村へ出ますが、其所は只今以て累ヶ淵と申します。

ここで「累ヶ淵」の説明である。圓生師匠でも聞いているが、
速記を読んでみると…元は圓朝師匠の言葉であった。

累が殺された所で、與右衞門(よえもん)が鎌で殺したのだ
と申しますが、それはうそだと云う事、全くは麁朶(そだ)を
沢山(どっさり)脊負(しょ)わして置いて、累を突飛ばし、
砂の中へ顔の滅込(めりこ)むようにして、上から與右衞門が
乗掛って、砂で息を窒(と)めて殺したと云うが本説だと…

あとは用水辺(べり)のボサッカについての説明もあるが、
いよいよ八月二十七日の晩、水門前の場面となる。

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