2016年12月25日 (日)

日和下駄の風景 6~日和下駄

永井荷風「日和下駄」 第一 日和下駄より

譬(たと)えば砲兵工廠(ほうへいこうしょう)の
煉瓦塀(れんがべい)にその片側を限られた
小石川の富坂をばもう降尽そうという左側に
一筋の溝川(みぞかわ)がある。その流れに
沿うて蒟蒻閻魔(こんにゃくえんま)の方へと
曲って行く横町なぞ即(すなわち)その一例である。
両側の家並(やなみ)は低く道は勝手次第に
迂(うね)っていて、(中略)折々氷屋の旗なぞの
閃く外(ほか)には横町の眺望に色彩というものは
一ツもなく、仕立屋芋屋駄菓子屋挑灯屋なぞ
昔ながらの職業(なりわい)にその日の暮しを
立てている家ばかりである。(中略)
こういう貧しい裏町に昔ながらの貧しい渡世を
している年寄を見ると同情と悲哀とに加えて
また尊敬の念を禁じ得ない。同時にこういう家の
一人娘は今頃周旋屋の餌(えば)になって
どこぞで芸者でもしていはせぬかと、そんな事に
思到ると相も変らず日本固有の忠孝の思想と
人身売買の習慣との関係やら、つづいて
その結果の現代社会に及ぼす影響なぞについて
いろいろ込み入った考えに沈められる。

想像が付くが、「周旋屋(しゅうせんや)」とは、
「雇人の紹介,斡旋を業とする人」であり、
「桂庵、口入れ屋と通称されたほか、
人宿(ひとやど)、請宿(うけやど)、人置(ひとおき)、
肝煎(きもいり)屋などとも呼んだ」とある。

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2016年11月19日 (土)

日和下駄の風景 5~日和下駄

永井荷風「日和下駄」 第一 日和下駄より

…何という事なく蝙蝠傘(こうもりがさ)に
日和下駄を曳摺(ひきず)って行く中(うち)、
電車通の裏手なぞにたまたま残っている
市区改正以前の旧道に出たり、あるいは
寺の多い山の手の横町の木立を仰ぎ、
溝(どぶ)や堀割の上にかけてある
名も知れぬ小橋を見る時なぞ、
何となくそのさびれ果てた周囲の光景が
私の感情に調和して少時(しばし)
我にもあらず立去りがたいような
心持をさせる。そういう無用な感慨に
打たれるのが何より嬉しいからである。

見落としそうな日常の時間に…そこに
発見があるのは、些細なものでも感動がある。
その価値は自分だけのものかもしれないが、
一度、気付くと、ずっとお気に入りとなる。

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2016年10月13日 (木)

日和下駄の風景 4~日和下駄

永井荷風「日和下駄」 第一 日和下駄より

苦学生に扮装したこの頃の行商人が横風に
靴音高くがらりと人の家(うち)の格子戸を明け
田舎訛(いなかなま)りの高声(たかごえ)に
奥様はおいでかなぞと、ややともすれば
強請(ゆすり)がましい凄味な態度を示す…

明治の頃の押し売りで、江戸も明治も強請は、
かなりあったと思うのだが、いまはなくなった。
昭和の頃には押し売りはあった。平成に撲滅。

昔ながらの脚半(きゃはん)草鞋(わらじ)に
菅笠(すげがさ)をかぶり孫太郎虫(まごたろうむし)や
水蝋(いぼた)の虫(むし)箱根山(はこねやま)
山椒(さんしょ)の魚(うお)、または越中富山の
千金丹(せんきんたん)と呼ぶ声。秋の夕(ゆうべ)や
冬の朝(あした)なぞこの声を聞けば何(なに)とも
知れず悲しく淋しい気がするではないか。

行商の売り声。こういうのは貴重な記録である。
伊勢の「万金丹」は知っているが「千金丹」もあったのだ。

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2016年10月12日 (水)

日和下駄の風景 3~日和下駄

永井荷風「日和下駄」 第一 日和下駄より

…昔から江戸名所に関する案内記狂歌集絵本の
類(たぐい)の夥(おびただ)しく出板されたのを見ても
容易に推量する事が出来る。太平の世の武士町人は
物見遊山を好んだ。花を愛し、風景を眺め、古蹟を
訪(と)う事は即ち風流な最も上品な嗜みとして尊ばれて
いたので、実際にはそれほどの興味を持たないものも、
時にはこれを衒(てら)ったに相違ない。江戸の人が
最も盛に江戸名所を尋ね歩いたのは私の見る処やはり
狂歌全盛の天明以後であったらしい。江戸名所に興味を
持つには是非とも江戸軽文学の素養がなくてはならぬ。
一歩を進むれば戯作者気質(かたぎ)でなければならぬ。

江戸の風流は、狂歌全盛の時代、天明期以降のことか。
天明の元号は、1781年から1789年で、その時期以降。

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2016年9月28日 (水)

日和下駄の風景 2~日和下駄

永井荷風「日和下駄」 第一 日和下駄より

私は神田錦町の私立英語学校へ通っていたので、
半蔵御門を這入って吹上御苑の裏手なる
老松(ろうしょう)鬱々たる代官町の通(とおり)をば
やがて片側に二の丸三の丸の高い石垣と深い堀とを
望みながら竹橋を渡って平川口の御城門を向うに
昔の御搗屋今の文部省に沿うて一ツ橋へ出る。
この道程(みちのり)もさほど遠いとも思わず
初めの中(うち)は物珍しいのでかえって楽しかった。
宮内省裏門の筋向(すじむこう)なる兵営に沿うた
土手の中腹に大きな榎があった。その頃その木蔭なる
土手下の路傍(みちばた)に井戸があって夏冬ともに
甘酒大福餅稲荷鮓(いなりずし)飴湯(あめゆ)なんぞ
売るものがめいめい荷を卸(おろ)して往来(ゆきき)の
人の休むのを待っていた。車力や馬方が多い時には
五人も六人も休んで飯をくっている事もあった。


神田錦町にあった高等師範学校附属尋常中学校に
編入学したのは、1891年(明治24年)とある。
上記の情景は、明治20年代の東京の様子らしい。

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2016年9月10日 (土)

日和下駄の風景 1~序

永井荷風の「日和下駄」を東京散歩の参考に
少しずつ読んでみよう。大正三年のことだそうで
東京市中と表現しているところに時代を感じる。

ここにかく起稿の年月を明(あきらか)にしたるは
この書板(はん)成りて世に出づる頃には、
篇中記する所の市内の勝景にして、既に破壊せられて
跡方もなきところ尠(すくな)からざらん事を思へばなり。

この当時にもすでに失われつつあったのだから
平成の現在には、一体どうなっていることか。
いくつか例があげられている。それがまたいい。

見ずや木造の今戸橋は蚤(はや)くも変じて鉄の釣橋となり、
江戸川の岸はせめんとにかためられて再び露草の花を見ず。
桜田御門外また芝赤羽橋向(むこう)の閑地(あきち)には
土木の工事今まさに興らんとするにあらずや。

河川改修の護岸工事は、繰り返す川の氾濫を防ぐなど、
きっと目的もあったのだろうが、こうした記述を読むと
都市の近代化で失われた風情に想いが向くのである。
赤羽橋の辺りで開発が進んでいたようだが、大正のことで
もちろん東京タワーはなく、戦後はますます激変したわけで。

昨日の淵(ふち)今日の瀬となる夢の世の形見を伝へて、
拙きこの小著、幸に後の日のかたり草の種ともならばなれかし。

永井荷風先生のおっしゃる通り、かたり草の種である。

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